地理風水と陰宅風水は非常に密接に関わります。
そもそも、地理風水が国家に影響を与えるのが大昔からありましたが、庶民の農民の風水まで発展してきたのは、明代(1368年~1644年)以降です。
では、明代以前にはどうでしょうか?
明代以降と以前で少し整理をしてみます。
唐代(618年~907年)
有名な楊均松の時代です。
この時代にはこの楊氏の名前から現在までに楊公という名前が使われています。
長安にいた楊氏は黄巣の乱で逃げて天寿全うと風水術を民間に広めます。
初めて、民間に広め、民間でも分け隔てなく陰宅風水を施しています。
ある意味、差別的な面の風水の性格を改めようという事を見事に成し遂げたという性格があったのではないでしょうか?
北宋時代(960年~1127年)は、張子微が玉髄真経を出しますが、科挙による格局判断が明快になり、社会制度の中で科挙の支配力が風水に影響を与えることとなります。
地理五訣が趙玉材により出される前は、地理五訣より、科挙の影響力が陰宅風水の古典書に反映される形であったことが窺えます。
この地理五訣で、龍法・穴法・砂法・水法が整備・整理されます。
ところで、良い土地の風水については、議論の余地があります。
現在の社会制度は科挙が無いから、風水は関係ない等と思われますが、風水が良い条件を満たすのは、安心・安全な場所の家と墓です。
自分自身は安心・安全だと思う気持ちと風水の安心・安全の判断は全く違います。
その為、家のトラブルだとしたら、命式もそうですが、家や町の風水に異変があると考えていいのです。
そこで結論的には、風水が悪いというのは家単位でとらえるのではなく、せめて、地域や区内の風水に目を向けてほしいのですが、家と土地だけの境界線では分かりません。
結論的には、正しい知識や情報だから、その通りにはなりませんよ、と風水術が生贄にされるケースは多々あります。
日本が高齢化社会を迎え、風水の面積も限界がある今、誰の為に良い風水の土地・家・墓を残せるか、これは、時には争いのもとになっても仕方ないかもしれません。
風水術は幾つか、生贄になることを要求します。
それが例えば、風水術を学んだ当人の命のであったとしても、嘘でも例外でもないのです。
だから、風水師が処刑や粛清をされるという歴史的なテーマがあります。
それでは本日はこの辺で。